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【その①~鯖江藩主・間部家~/事務局・メガネ包みプロジェクト】
メガネ包みのネーミングにもなった間部の青鬼と呼ばれた
「松堂公とは?」

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間部詮勝公

●文化元年(1804)2月19日に鯖江で生まれ、11歳で藩主に着任。14歳で将軍・徳川家斉に拝し元服。従五位下・下総守に任ぜられます。
 

●24歳で奏者番(譜代大名より任命され、各藩主の将軍謁見の取次、殿中の礼式を掌る重大な職)に任命され幕閣に関与。27歳で寺社奉行見習、加役、大坂城代、京都所司代、西丸老中職(大御所家斉付)と栄転し、弱冠37歳で幕閣の最高位にまで昇り詰めました。
 

●39歳の時、老中・水野忠邦と対立し鯖江に戻り、藩財政を立て直す目的で「産物会所」を開設。嚮陽渓(現在の日本海側、最大の躑躅の名勝・西山公園)」を造り、領民の為の政策に励みました。
 

●54歳の時、大老・井伊直弼の懇願から、15年振りに幕閣に返咲き、老中職・勝手掛兼外国御用掛として才を発揮。当時、開国と将軍継嗣問題を巡り、諸問題が山積の中、幕閣を代表し上洛。孝明天皇に、開国条約調印に至る経緯を説明、尊王攘夷派を弾圧する任務を負いました。
 

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後に「安政の大獄」と呼ばれますが、長い鎖国から外国武力に著しく劣る日本を守りつつ、開国を迫る諸外国に厳しい態度を示しながら、開国を決断した伊井の赤鬼こと直弼や、間部の青鬼こと詮勝により、近代日本の礎が作られたのは事実です。
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●55歳、大獄による志士の処分、孝明天皇の勅許を巡り、井伊直弼と対立。老中を罷免され「桜田門外の変」で直弼が暗殺され、直弼と詮勝が主導した安政期の政権は幕を閉じます。

 

●晩年は、鯖江に戻り「松堂」と号し、書画や詩歌の製作に暮らしました。鯖江市内の旧家や、菩提寺である萬慶寺本堂には「風神・雷神・竜神」残っています。維新以降、子爵として東京に住み、東京向島小梅村(現在の墨田区)で81歳で没。多摩霊園に眠っています。

「松堂亭(右図)」・・・西山公園の前身の「嚮陽渓(左図)」を整備した鯖江藩第7代藩主、間部詮勝公の雅号「松堂」より

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